戦国時代初頭、天正三年に長宗我部元親公の熊野権現勧請に際し、別当として吾岡山の東端に吾岡山延寿院吾岡寺として創建される。爾来、歴代先徳により連綿と法灯を護るも、天明年間、火難の災に遭い灰燼に帰し現在の地に移る。その際寺名の吾岡寺は劫火に通ずると忌憚し、大徳寺と改称する。
明治四年、世に蔓延し廃仏毀釈の法難を免れる事能わず、一宇を残して原野に埋没する。
明治四三年、伊達正宗公の子孫である北川奉天和尚の土佐行脚の砌、この惨状を憂い、土佐十三ヶ寺の再興を図り、法嗣、弘光和尚が大正十三年に入寺すると寺号の復活に着手し、伊予松山垣生村に在りし真言宗醍醐派末、建長二年創建の一輪山貴宝院 長尾寺を移転。
昭和五年、現在の地に命脈を得て、吾岡山延寿院 大徳寺として中興開山する。
昭和十二年、弘光和尚の日夜を分かたぬ復興への信念により、本堂を始め諸堂宇が完成。
昭和二十五年、長子賢宥和尚入寺するや師父の志を継承し、寺門興隆に心魂を傾注する。
各種社会教化活動に草創期より尽力、殊に昭和五十一年、吾岡保育園の設立等、児童福祉教育に専心努力する。また、四国三十三観音霊場の創設に関わり、高知六ヶ寺を束ね、四国全域寺院の参加による済世利民の一大道場を完成させる。
昭和六十年、弘光和尚、九十歳にして遷化されるや和尚の遺志を継ぎ、昭和六十二年に醍醐派より和尚の育った高野山へと転派する。
平成四年、現住職 和照和尚が法燈を継ぎ、先師の遺訓を継承し寺門の興隆、檀信徒の教化並びに児童福祉に専念する。
平成十四年、高野山開創千二百年記念大法会を迎えるにあたり、先師終生の念願であった本堂、位牌堂の再建、山門、鐘楼堂、庫裡の修復に加え、ご本尊波切不動明王像の奉安、高祖弘法大師尊像の修復の大業に八年をかけ邁進する。
平成二十二年十月、採骨砕身の末、晴れて現本堂の落慶ならびにご本尊波切不動明王尊の入仏開帳が行われ現在に至る。